HOME → 発掘調査ニュース

発掘調査ニュース

令和6年度 発掘調査ニュース

(写真をクリックすると大きくなります)

灰塚第8~11号古墳・石見銀山街道(世羅郡世羅町)

灰塚第8~11号古墳・石見銀山街道の発掘調査概要

【調査期間】令和6年7月22日 ~ 12月13日

〔調査の概要〕

主要地方道甲山甲奴上市線道路改良事業に伴う発掘調査として、灰塚第8~11号古墳・石見銀山街道の発掘調査を行ないました。調査面積は約1,130㎡です。

灰塚古墳群は世羅郡世羅町赤屋に所在する、11基の古墳で構成される古墳群です。

石見銀山街道は、石見銀山で生産した銀を運ぶために17世紀初頭に整備された街道で、石見銀山から尾道まで通っていました。銀山街道の発掘調査は広島県内では初めての事例となります。

灰塚第8号古墳は、直径約9m、高さ約1mの円墳です。調査を行った古墳の中では、墳丘は最も良好に残存していましたが、埋葬施設は確認できませんでした。出土遺物も、盛土内から出土した石鏃や、墳丘で表採した弥生土器片、周溝内の表土から出土した古銭だけです。

灰塚第9号古墳は、直径約7m、高さ約0.6mの円墳と考えられます。墳丘盛土及び埋葬施設は確認できませんでした。出土遺物は樹木等による撹乱土内から弥生土器が出土しています。

灰塚第10号古墳は、直径約8m、高さ約0.8mの円墳と考えられます。墳丘盛土は数cm確認できただけで、埋葬施設は確認できませんでした。出土遺物は、撹乱土内から須恵器片数点と、調査区外から弥生土器片と瓦質土器が出土しています。

灰塚第11号古墳は、直径約10m、高さ約0.9mの円墳です。埋葬施設は、丘陵の基盤層を掘り込んで墓坑を造っており、木棺直葬と考えられます。出土遺物は、鉄剣や鉄鏃、古銭(永楽通宝の破片)、弥生土器片が出土しています。鉄剣や鉄鏃は古墳に伴う遺物と考えられますが、樹木等による撹乱や中世の改変などを受けたとみられ、鉄鏃1点を除き埋葬施設上面よりも約0.4~0.5mほど上で出土しました。

次に、石見銀山街道は、二つの切通しに各1ヶ所、道路跡に1ヶ所、調査区を設定し発掘しました。その結果、切通し部は幅約2.2mで側溝がないこと、道路部は幅約2.8mで側溝がないことがわかりました。道路部の遺構面はやや固く、道路面を固くする工程を行った可能性が考えられます。出土遺物は、切通し部では出土せず、道路部では古代の土師器片が1点出土しています。

調査の結果、灰塚第8~11号古墳の出土・表採遺物や、古墳群の立地、配置状況から、灰塚古墳群の築造時期は古墳時代中期(4世紀末~5世紀末)が想定できますが、時期を判定する材料が少ないため今後検討していきます。

石見銀山街道は、道幅が切通し部で約2.2m、道路部で約2.8mで、どちらも側溝がないことが分かりました。近世の出土遺物はありませんが、古代にさかのぼる可能性がある遺物が出土し、近世以前のからこの道が使用されていた可能性が考えられます。島根県では石見銀山街道の発掘調査が行われており、その実態が徐々に判明しています。今後は、それらと比較しながら広島県内の石見銀山街道の実態を検討していきます。

  • 灰塚第8~11号古墳空中写真
    灰塚第8~11号古墳空中写真
  • 灰塚第8~11号古墳完掘状況
    灰塚第8~11号古墳完掘状況
  • 灰塚第11号古墳SK1完掘状況
    灰塚第11号古墳SK1完掘状況
  • 灰塚第11号古墳作業風景
    灰塚第11号古墳作業風景
  • 石見銀山街道2区完掘状況
    石見銀山街道2区完掘状況
  • 石見銀山街道1区作業風景
    石見銀山街道1区作業風景

このページの先頭へ

福原2号遺跡(東広島市西条町寺家)

福原2号遺跡の発掘調査終了

【調査期間】令和6年4月15日 ~ 9月6日

〔調査の概要〕

都市計画道路吉行飯田線街路事業に伴い、福原2号遺跡(調査面積1,700㎡)の発掘調査を行いました。

今回の調査では、弥生時代及び中世~近世の遺構を確認しました。遺構は、弥生時代中期の竪穴建物跡2棟、中世の段状遺構1基、近世以降の掘立柱建物跡1棟のほか、中世~近世を主体とする多数の溝・土坑・柱穴などです。

調査地は寺家駅から東へ約400mの場所で、低い丘陵尾根先端の東から西へ下る緩斜面でした。表土を取り除いたところ、調査範囲西側で中世頃に埋没した谷が北から南へ入っていることが分かりました。弥生時代の遺構はこの谷を避け、東側の高いところに限定されています。一方、谷周辺では中世以降の遺構を多数確認しており、中世以降は谷周辺も生活域として利用されるようになったようです。限られた範囲ですが、時代の変遷とともに地形と生活域の変化が連動している状況を確認することができました。

また、弥生時代中期の竪穴建物跡のうち、SI67(直径約6.5~7.0m)は、壁溝(竪穴周囲を板材などで土留めした痕跡)、柱穴(屋根を支えるための柱の穴)、炉跡(建物の中央で火を焚いた痕跡)、ベッド状遺構(竪穴内部に設けられた段)などを良好な状態で確認することができました。また、土器の素材?もしくは崩落した壁材・屋根材?と考えられる粘土塊も出土しています。この地域における弥生時代の竪穴建物構造を考えるうえで貴重な調査例になりました。

具体的な遺跡の評価は、今後の整理作業をとおして検討していきます。

  • 空中写真(南から)
    空中写真(南から)
     
  • 弥生時代中期の竪穴建物跡SI67(南から)
    弥生時代中期の竪穴建物跡
    SI67(南から)
  • SI67から見つかった粘土塊
    SI67から見つかった粘土塊
     
  • SI67作業風景(南から)
    SI67作業風景(南から)
  • 柱と考えられる木の残った柱穴
    柱と考えられる木の残った柱穴
  • 龍王小学校による見学
    龍王小学校による見学

このページの先頭へ

神田遺跡(竹原市新庄町)

ただいま調査中

【調査期間】令和6年4月8日 ~ 令和7年1月(予定)

〔調査の概要〕

神田遺跡は一般国道432号(竹原バイパス)道路改良事業に伴って発掘調査を実施しています。

遺跡の所在地は竹原市北部の新庄町字上神田・下神田で、北東の丘陵から続く南西向きの傾斜の緩やかな斜面に位置しており、150m程度西には田万里川と葛子川に合流した賀茂川が瀬戸内海に向かって南へ流れています。

調査区の範囲は南北約240m、東西10~20mの帯状ですが、生活道路により大きく3つに分断されています。(北から1区、2区、3区と呼称しています。)また、このうち1区は水路によりさらに分断されることから、水路より北側を1区北、南側を1区南と呼称することとしました。調査は1区北から順次南に向かって調査を実施しており、現在は1区南を調査中です。ここでは1区北の調査成果を報告します。

1区北の調査では、遺構面を3面確認しました。第1遺構面はもっとも新しい時期の遺構面で、第3遺構面がもっとも古い時期の遺構面です。第1遺構面と第2遺構面は耕作跡で、第3遺構面は集落跡でした。

第1遺構面では数条の畝を確認しました。畝は調査区の西に隣接する国道432号と同じ方向に延びており、国道432号の開通後に作られたものと判断しました。

第2遺構面では等高線に並行または直交する畔状の高まりを確認しました。また、第2遺構面は等高線に沿って上下2段になっており、下段は礫混じりの土により短期間に埋め立てられていることが土層観察から分かりました。地籍図や1947年の空中写真によると、国道432号開通前の遺跡周辺は地形に沿って階段状に水田が作られていました。このことから、第2遺構面の段差は道路建設以前である可能性が極めて大きく、道路建設に伴い既存の水田を一気に埋め立てたようです。

第3遺構面では竪穴建物跡と掘立柱建物跡を確認しました。竪穴建物跡は出土遺物や建物の平面形が円形であることなどから、遺構の時期を弥生時代と考えています。一方、掘立柱建物跡は周辺から出土した遺物や柱穴が小さく、柱通りが悪いことから、遺構の時期を中世と考えています。弥生時代以降の生活面が削られ、その後中世の掘立柱建物が建てられたことから、時期の異なる遺構が同一遺構面で見つかったものと思われます。

調査区内から弥生土器、土師器、須恵器、瓦器、焼き締め陶器、輸入陶磁器、スラグ、金属製品等が出土しました。主に弥生時代から中世の遺物で、大半の遺物は斜面上方からの流れ込みです。なお、縄文時代以前の石器が1点見つかりました。

1区北の調査では、現代の耕作跡や弥生時代と考えられる竪穴建物跡、中世と考えられる掘立柱建物跡を確認することができました。竪穴建物跡や掘立柱建物跡はいずれも標高の高い調査区北西半に集中していました。また斜面上方からの流れ込みの遺物が多いことから、調査範囲外の斜面上方には幅広い時期の遺構が広がっているようです。

調査はこれから範囲を徐々に南へ広げていきます。調査区の標高が南へ行くほど低くなることから、検出する遺構の種類や密度が1区北のものと異なるものと予想されます。今後の調査でどの時期のどのような遺構や遺物を確認できるか、楽しみです。



  • 第1遺構面 畝(南から)
    第1遺構面 畝(南から)
     
  • 第1遺構面 作業風景(北西から)
    第1遺構面 作業風景
    (北西から)
  • 1区西壁 道路建設に伴う埋め戻し
    1区西壁 道路建設に伴う埋め戻し
     
  • 第2遺構面 畝(西から)
    第2遺構面 畝(西から)
  • 第3遺構面 掘立柱建物跡(北から)
    第3遺構面 掘立柱建物跡
    (北から)
  • 第3遺構面 竪穴建物跡(東から)
    第3遺構面 竪穴建物跡
    (東から)

このページの先頭へ

二才原遺跡(府中市広谷町)

二才原遺跡の発掘調査終了

【調査期間】令和6年4月15日 ~ 6月14日

〔調査の概要〕

新山府中線単県道路改良事業に伴い、令和4年度に実施した第1次調査地の道路を隔てた北側120㎡を対象に発掘調査を行いました。第1次調査では、出土した土器類から備後国府が存在した奈良~平安時代を中心とする遺構が見つかっています。

今年度の調査では、土坑、柱穴、溝 など、50基の遺構を検出しました。調査区の中央付近では、梁間2間、柱間距離約1mで柱を抜き取った痕跡が残る柱穴列が確認できました。また、第1次調査で見つかっていた溝の続きと考えられる溝も確認しました。確認できた溝は2条で、柵列を伴うものもあります。ただし、今回確認できた遺構の深さは10㎝未満と浅いものが大半であることから、遺構面は後世に削平されていると考えられます。遺構に流れ込んだ土に含まれていた遺物は、弥生時代中期の土器が中心となっています。遺構面の上に堆積していた土は、丘陵上から流れ込んだ土と考えられ、この土には弥生土器の他に須恵器や土師質土器、さらに石鍋の破片等、古代~中世にかけての幅広い時期の遺物が含まれていました。

今年度の調査で確認した遺構は、遺構から出土した遺物から、弥生時代を中心とした時期のものと推測されます。第1次調査時に確認できた遺構とは異なる時期の遺構が中心となりますが、遺跡の性格等の具体的な遺跡の評価は、今後の整理作業をとおして検討していきます。



  • 空中写真(南西から)
    空中写真(南西から)
  • 柱穴列(北から)
    柱穴列(北から)
  • 柵列を伴う溝(北から)
    柵列を伴う溝(北から)
  • 弥生土器を含む遺構(南西から)
    弥生土器を含む遺構
    (南西から)
  • 作業風景
    作業風景
  • 度重なる水没に悩まされた<br />調査区
    度重なる水没に悩まされた
    調査区

このページの先頭へ