ひろしまの遺跡 第80号 |
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「広島県内に“城”はいくつあるでしょう。」と私。 |
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ただ,1481か所という遺跡の数。県内をくまなく調査した結果とはいえ,詳しく調べてある地域とそうでない地域があることを忘れてはいけません。また,この中には,戦争を行うための臨時的な施設である陣城や日常生活が行われた館,見張り所や狼煙台などさまざまな性格の遺跡が含まれている点も考慮しなければならないでしょう。本来はそういういろいろな要素を考えながら分析をしなければならないのですが,ここでは全体的な傾向を大まかにつかむために,あえておおざっぱな検討を行ってみましょう。 計算した結果をまとめたものが左下の図です。図を見ると大まかには東高西低の傾向があるようです。この中で最も数値が高かったのは世羅郡世羅町で,1km2あたり2.24か所でした。第2位の因島市が0.66,県平均0.17から考えても,この数値の高さはとびぬけています。この地域は中世には大田荘という荘園があったところです。この荘園は全国的にも有名で,県内で最も調査が進んでいる地域ですが,その点を差し引いても県内でも有数の城館遺跡集中地域といえるでしょう。第3位の高田郡吉田町は戦国大名毛利氏の本拠郡山城があるところです。先の伊藤さんの文章中では「戦国大名権力の所在郡域では,国衆の築城権が厳しく抑圧され」遺跡の密度が低下する,すなわち遺跡の数が少ないことが指摘されていますが,この吉田町の遺跡密度の高さは何を表しているのでしょうか。もしかしたら,1540(天文9)年に山陰の尼子氏が攻め込んできた郡山合戦など緊迫した当時の社会情勢を反映しているのでしょうか。でも,そうならば県内で合戦のあった他の場所でも遺跡密度が高くないとおかしい。してみると,吉田町での遺跡の多さは,毛利氏の権力が未成熟だった頃の状況を表しているのかもしれませんね。後に毛利氏の家臣となる連中の力が強かった時代,毛利氏からみれば彼らをどう押さえ込もうかと四苦八苦していたようすが読みとれるのではないでしょうか。 逆に遺跡密度の低い地域は,県の西部や北部などです。瀬戸内海沿岸地域でも東高西低の傾向がみられますが,西部でも部分的に遺跡の集中がみられるところもあります。交通の要衝だからでしょうか。 と,ここまで考えて“ありゃ,こりゃまずい”と気付いたことが一つ。町村域に人の住まない山地を多く抱えている県の西部や北部などで遺跡密度が低いのは当たり前。これらの地域は,このような分析では特性は見えてこないでしょう。もしかしたら,遺跡密度の高い世羅町も別の角度から見直せば,違った姿がみえるかも。なんとか人が住む地域に関わる要素とからめて比較をしたいのだが,何かいい資料はないだろうか…,と図書室にこもっていたら,ありました。これを使って考えてみましょう!! え,紙面がもうないって。次のページ,使っちゃダメなの? しょうがない,それでは続きはまた次号で。 |
(尾崎光伸) |
参考文献 ・伊藤正義「中世城館遺跡の調査と史跡指定」『月刊 文化財』No.432 1999 ・広島県教育委員会『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』第4集 1996 ・『広島県の地名』 平凡社 1982 |
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