ひろしまの遺跡 第90号

考古学アラカルト30

村の城
 もう7〜8年も前になりますか,藤木久志先生の『雑兵たちの戦場』を読んでいると「村の城」という記述があり,びっくりしてしまいました。それは,それまで,「城」というと戦国時代を代表し,領主権力を象徴する軍事的な施設と考えていたからです。その著書には,村に平和を保障してくれるものこそが領主で,「草のなびくようなる御百姓」は,いざというときは領主の城に避難する(城あがり)か,地域の山間にある自前の避難所に篭った(山あがり)とされています。この自前の避難所こそ「村人が自力で作り上げた村のナワバリを守る『村の武力』のよりどころ」である「村の城」であるとされています。この「村の城」は,考古学的には内容が明らかにされていませんが,集落に隣接した低丘陵を利用した小さな城で,集落ごとに造られていたと考えられています。
 そこで,全国的にも発掘調査例が多い広島県の発掘城館を改めて眺めてみますと,@耕地に面した低丘陵上にある,A規模が小さい,B造成・構造が簡易で防御機能が弱い,C居住施設が見られない,D出土遺物が少ない,E文献史料が見られないという,共通の特徴をもつ城館跡が多く含まれることがわかりました。さらにこれらに特徴的なことは,城地に小祠が祭られる例や城地が共同墓地として使われた例,さらに炭窯群が城に改修された例など,城地が村あるいは地域住民と密接な関係にあったことを示す例が多いことです。
 こうした城は14世紀に出現し16世紀前半まで見られますが,中小の領主が戦国大名や豊臣大名に吸収されていく16世紀後半には見られなくなります。こうした特徴は,それらの城では領主との関わりが見出せないこと,日常生活と近い関係にありながら日頃は使われない場,臨時的施設として使われていたことが考えられます。これこそ藤木久志先生のいわれる「村の城」ではないでしょうか。
 広島県では,これまでに約1,300ヶ所の城館跡があることが確められています。このうち発掘調査された城館跡は約100ヶ所で,それらは立地や規模・構造・出土遺物から類推できる機能で5類に分類できます。領主が本拠とした大小の「城」と,いわゆる「村の城」がそれぞれ3割強を占め,住まいである「屋敷」と城攻めや軍事行動のための「陣」がそれぞれ2割弱,そのほかに山上の城を平地に降ろした「平城」がわずか見られます。
 このように発掘調査された城館跡では,これまでの城のイメージ(=領主権力を象徴する軍事的施設)とは異なる「村の城」や「屋敷」が半数近くを占めていることがわかります。また,発掘調査は行われていなくても,立地や規模・構造から「村の城」と推定されるものは約400ヶ所,城全体の約3割(このなかには小規模な「城」も含まれる)を占めていることがわかります。中世の城といえば領主間抗争の舞台としての城攻めを連想しますが,実態としてはこのように「村の城」や「屋敷」など,領主間抗争とは直接的に関わらないものが多くあることがわかります。
 それでは,こうした状況は広島県だけに見られるのでしょうか。中国・四国地方で発掘調査された城館跡をこの分類に当てはめると,中国地方の中でも瀬戸内側では広島県の状況に近い傾向が見られますが,日本海側では「城」の占める割合が高くなり,四国地方ではさらに高くなって,それに反比例するように「村の城」の占める割合が低くなっています。こうした差は,史料で明らかにされているように地域の権力による政治的動向に影響されたものと考えられますが,一方では記録としては残りにくい,それぞれの地域の実態や人々の動向を含めた社会的状況の差やそれぞれの地形的条件の差が,各種の城館出現の差となったものと考えられます。
 このように,いわゆる歴史の舞台に登場しない,史料や記録もない小さな城跡でも,綿密な調査を行えばいろいろな事がわかってきます。中世の地域社会,とくに生活との関わりを明らかにするためには,考古資料の綿密な検証が必要です。
 歴史上では,それほど高い評価は得られない地域のできごとや,その結果として遺された遺跡や遺物,こうした一つ一つの調査研究の積み重ねによって当時の人々の動向がより鮮明になってくることでしょう。
(小都 隆)
参考文献 藤木久志「雑兵たちの戦場」講談社 1995年

炭窯群が城地となった
平家ヶ城跡(豊平町)
耕地に面した小奴可城跡
(千代田町)




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