ひろしまの遺跡 第88号

日本中世の桶(後編)
 前回は,日本で古くから使われてきた刳桶・曲桶に加えて,11世紀後半には北部九州地域で結桶が登場することを紹介しました。結桶は,軽くて大きな容器が作れるという便利な容器ですが,すぐには各地に広がっていかなかったようです。

結桶の拡散
 結桶は,12世紀代になっても博多・大宰府など北部九州地域以外の遺跡では確認できません。これは,博多にもたらされた結桶がしばらくの間はもっぱらチャイナ・タウンにおける中国人の生活用具として使われ,日本人社会にはほとんど紹介されなかったためだと考えられます。
 ところが,13世紀後半から14世紀になると瀬戸内以東の地域でも少しずつ出土例が確認できるようになります。この頃になると,元寇の影響などによって中国商人の対外貿易における独占的な活動にもかげりが見られるようになり,博多のチャイナ・タウンも解体してしまうようです。そして,中国人商人に代わって日本人商人が対外貿易に積極的に関与するようになります。つまり,日本人商人が対外貿易に直接携わったことによって,中国の結桶文化が北部九州以外の地域へも紹介されることになったと考えられるのです。
 中世の町として知られる福山市の草戸千軒町遺跡では13世紀末頃から結桶が出土するようになるほか,絵巻物などの絵画資料や文献資料でも13世紀末から14世紀初頭にかけての時期から結桶の存在が確認できるようになります。

結桶の普及
 13世紀から14世紀にかけて瀬戸内地域以東に結桶が拡散するわけですが,その時期の結桶の出土量は少なく,結桶を量産するための技術までは日本人社会に定着して いなかったようです。ところが,15世紀から16世紀にかけての時期になると各地で結桶の出土が目立つようになり,さまざまな用途に結桶が利用されているのが確認できます。井戸枠として作られた底のない結桶もこの時期には数多く存在するほか,山県郡豊平町の吉川元春館跡では,16世紀後半に便槽として利用された結桶が見つかっています。
 15世紀以降結桶が急速に普及してくる背景としては,結桶製作技術の革新があったことが予想できます。草戸千軒町遺跡で14世紀代に井戸枠として作られた桶の側板を観察すると,側面に(やりがんな)と呼ばれる工具の痕跡が確認できます。 というのは,スプーンの側面で木材表面の凹凸を削っていくような工具で,日本に古くからある大工道具です。ところが15世紀の井戸材を観察すると,台鉋のような工具で一気に加工されていることが確認できます。台鉋は,製材用の縦挽鋸である大鋸などとともに室町時代に日本に定着したといわれる工具ですが, に比べて正確で効率的な加工が可能になったと考えられます。
 一方,文献資料の上では14世紀代には結桶の修理が番匠,つまり一般の大工に発注されていたのが,15世紀になると「ゆいおけゆい」と呼ばれるような専門の職人に発注されるようになっています。つまり,結桶製作のための専門的な技術体系が確立するとともに,専門の職人集団が成立してくる状況が確認できるのです。ちなみに,15世紀末に成立した『三十二番職人歌合』にも,専門職人である「結桶師」が登場しています。

おわりに
 15〜16世紀に急速に普及した結桶は,その優れた特性から,産業や生活のさまざまな分野に取り入れられていきます。特に,醸造業や輸送業の分野でその有効性が発揮され,江戸時代の諸産業の発展の基盤を担っていました。そして,つい最近まで,結桶は私たちの生活をさまざまな形で支えてくれていたのです。
 最近はすっかり目にする機会の少なくなった結桶ですが,天然素材に由来するその優れた特性は見直す価値が十分にあると思います。皆さんもどこかで結桶を見かけたら,長い歴史を秘めたその木肌にちょっと触れてみてください。
(鈴木康之)
吉川元春館跡で発見された戦国時代の結桶(トイレとして利用されていました。)
(広島県教育委員会提供)