ひろしまの遺跡 第87号

日本中世の桶(前編)
はじめに
 私たちの日常生活の中で使われてきた伝統的な木製容器の中に,桶と呼ばれる円筒形の容器があります。最近ではプラスチック製の容器などに押されて目にする機会が少なくなってきましたが,少し前までは台所や風呂など水回りの場所でさまざまな用途に活躍していました。桶というと,長方形の板を何枚か組み合わせて竹や金属の箍で固定したいわゆる「結桶」を思い浮かべる方が多いと思いますが,このほかにも,ヒノキなどの薄板を丸めた「曲桶」や,丸太材を筒形に刳り抜いた「刳桶」なども存在します。これら各種の桶の歴史は,これまで文献資料や絵画資料を中心に研究が進められてきました。しかし,文字に記された容器が具体的にどのようなものを指しているのかをつきとめるのはなかなか難しく,絵に描かれた容器からは具体的な形を知ることができるものの,細かい部分の構造や,製作技法などの解明には限界がありました。そのような中で近年注目されてきたのが,遺跡から発掘した考古資料です。考古資料は壊れた状態で出土することが多く,本来の形をとどめていることが少ないという欠点はありますが,実際に使われていた製品を確認できるといった利点があります。また,いっしょに出土した土器などから,年代を確定できることもあります。
 今回から2回にわたって,考古資料によって明らかになってきた日本中世の桶の歴史を紹介します。

結桶構造の井戸

結桶の登場
 結桶・曲桶・刳桶の中で最も古くから使われていたことが確認できるのは刳桶で,弥生時代の遺跡から何例か確認できます。刳桶は,大きな丸太さえ用意できればそれに見合った大型品を作ることができますが,容器が重くなったり,乾燥によって変形することもあったのではないかと思われます。刳桶に続いて確認できるのが曲桶で,弥生時代にさかのぼる例があるともいわれていますが,量が増えてくるのは7世紀頃からです。その後,古代から中世にかけて数多くの出土例が確認でき,現在でも柄杓や弁当箱などとして使い続けられています。曲物は針葉樹の薄板を加工して作るので軽いのが特徴ですが,大型の容器を作るのは困難で,強度にも難があります。
 「丈夫で大きくて軽い容器が欲しい」という希望をかなえてくれるのが結桶で,日本では11世紀後半の北部九州地域に登場します。その頃,博多(現在の福岡県福岡市)では中国の商人が居留地を作って貿易活動を展開していました。いわゆるチャイナ・タウンが存在していたのです。結桶は,チャイナ・タウンでの生活用具として中国商人が持ち込んだのが始まりだったと考えられます。ただ問題なのは,この時期の博多では容器としての結桶は確認できず,発掘調査では井戸枠として作られた底のない結桶が見つかっているだけなのです。しかし,当時の日本ではこのような構造の井戸は博多・大宰府(福岡県太宰府市)とその近隣にしか存在しないことや,中国では既に結桶が普及していたことなどから,容器としての桶も博多のチャイナ・タウンに持ち込まれていたものと考えられます。

結桶構造の井戸

 平安時代後期の11世紀後半に登場した結桶は,すぐさま日本列島の各地に広がっていくかと思いきや,実はしばらくの間,北部九州地域以外から外に出ることはありませんでした。瀬戸内から東の地域で結桶が確認できるようになるのは,13世紀後半から14世紀にかけて,鎌倉後期から南北朝時代にかけてのことなのです。便利な結桶がなかなか広まらなかったのにはいくつかの理由が考えられますが,そのあたりの事情は次回にお話ししましょう。
(鈴木康之)
桶の実測図