ひろしまの遺跡 第87号

遺物ピックアップ 昨年度発掘調査から

土坑に石が充満した一石経経塚

 双三郡三良坂町の大谷・灰塚・棗原にまたがる萩原城跡は,戦国時代の山城と伝えられています。昨年度,灰塚ダム建設事業に伴い,城跡の一部について発掘調査を実施し,土坑に一字一石経を納めた一石経経塚を確認しました。
 一字一石経は,小石に経文を一字ずつ記したもので,人々のさまざまな願いや祈り−例えば,息災延命・疫病退散・豊作祈願・故人の供養など−が込められています。室町時代の後半に始まり,江戸時代に盛んに行われたもので,全国各地に見られます。土坑に多量の経石が納められた例が知られ,文字のない石が納められる場合もあります。

萩原城跡調査区遠景
 調査で確認した土坑は径1.6×2.2m,深さ0.5mで,内部に数万点の河原石が充満しており,そのうちの50点ほどに墨書があります。ほかの大部分の石については,土坑内での状況などを踏まえると,本来墨書がなかったものがほとんどでしょう。判読できた文字は「説」「在」「世」「須」「具」「台」「何」「楽」「懐」「時」などです。これらが拠った教典は明確ではありませんが,一般に「法華経」が多く書写されたことが知られています。
墨書きされた経石
 萩原城跡については,出土遺物の特徴などから,戦国時代に整備されたことが確認されました。一石経経塚は,築造の年代を示す遺物はありませんが,整地された地面から掘り込まれており,戦国時代以降のものになります。
 三良坂町には,一字一石経に関わる遺跡が数例知られています。町内三良坂地区にある一石経経塚は,石室の中に「法華経」を記した一字一石経が納められており,石室の上部には「一字一石」の銘を刻んだ石碑が立てられています。この経塚は文化11(1814)年に造られたものです。また,萩原城跡の北麓やその1qほど西方の地にも,「一字一石」の銘を刻んだ石碑が天明元(1781)年や享保13(1728)年に立てられています。
 一石経経塚の特色は,多くの人々・庶民が築造に参加したことです。多数の人々・多量の経石という数的要素により,善を積み利益を得ることが一層増大すると考えられたようです。萩原城跡の一石経経塚について,築造の趣旨や年代は明確ではありません。ただ,多くの人々が参加した背景には,近辺の地域社会における人々の結びつきが成り立っていたことがあるのでしょう。
(下津間康夫)
経石の出土状況



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