ひろしまの遺跡 第86号

竪穴住居跡の見方
 最近では,丘陵上で行う発掘調査例が多く,そこでは人々が生活していた集落跡がしばしば見つかります。発掘期間中には,遺跡見学会を開催することにしていますが,集落遺跡では竪穴住居跡をよく見かけます。そこで,竪穴住居跡について,広島県の例を中心に話してみましょう。
 竪穴住居は,辞典によると「地面を水平に掘り下げて床面とする居住施設」(『最新考古学用語辞典』)とされています。「竪」の字は,立つ,立てる,しっかり立てる,縦の意味があります。
 竪穴住居は縄文時代から奈良・平安時代にかけて盛んに造られました。当時の地表から0.5〜1.0m程度,垂直に掘り窪めて生活する床面を設けています。穴を掘った土で周囲に堤を築き,その内側を板で固めて壁にしています。ですから,床面とは大きな段差ができるため,外とは梯子を使って出入りします。完全な地下室ではありませんので,半地下式とも呼ばれています。床面に柱を立て,屋根を架けていますが,これらは長い年月で腐り,発掘調査時には床面とその付近しか残っていない場合がほとんどです。平面の形は,円形,多角形,楕円形,長方形,方形,隅丸方形などがあり,時代と地域によって異なります。
 竪穴住居跡は,床面,柱穴,壁溝,ベッド状遺構,貯蔵穴,炉,竈などを見つけて発掘していきます。

竪穴住居の復元図

 旧石器時代の住居は,西ガガラ遺跡(東広島市)で,地面を深く掘り下げない平地式住居が発見されています。径3〜4mの範囲を浅く掘りくぼめ,細い柱を10本程度楕円形にまわしています。屋根は円錐形のテント状の形になります。
 竪穴住居は縄文時代に出現したと考えられていますが,広島県での発見例はまだ極めて少ないのが現状です。帝釈峡遺跡群(早期・前期,東城町など)では,洞窟の入口や岩陰を利用した住居が想定されていますが,これは竪穴住居跡ではありません。御領遺跡(神辺町)で,炉のある楕円形の竪穴住居跡(後期)が発見されています。
 弥生時代になりますと,広島県でも多数発見されています。特に中期後半以降はその数が増加します。
 竪穴住居跡を見学される時のどういう点に興味をもたれるでしょうか。
 まず,形でしょうか。全国的には(特に関東・東海や九州地方),弥生時代は円形で,古墳時代以降は方形になると言われています。広島県では,弥生時代中期までは円形が圧倒的です。その後は,県内でも地域差がありますが,中期後半になって円形・楕円形に混じって多角形や方形(隅丸方形や長方形を含みます)が出てきます。次第に方形の比率が増し,弥生時代末には半分ぐらいが方形になる地域も出てきます。そして,古墳時代前期は円形・楕円形も残りますが,方形が8割ほどになります。古墳時代中期にはほとんど方形になり,竈が本格的に導入される古墳時代後期以後はすべて方形と言ってよいほどです。方形の竪穴住居跡に竈があれば,それは古墳時代後期以後のものと分かります。竈の存否は時代判定の一つの要点になります。
 次は,内部の構造でしょうか。炉や柱の位置や数です。炉は1つ,中央にある場合が多いようです。竈は壁際に造り付けてある場合がほとんどです。柱は円形の竪穴住居跡の場合,2〜10本程度まで様々ですが,方形は4本柱の例が多く見られます。その他,壁際の床が高くなった部分(ベッド状遺構)のある竪穴住居跡が,迫田山遺跡(庄原市)など,時々発見されています。このベッド状遺構の用途については,寝台,物置,祭壇などと言われていますが,まだはっきりしていません。まだ謎の部分です。皆さんも考えてみて下さい。
 また,しばしば火災を受けた竪穴住居跡が発見され,見学できることもあります。県内でも,迫田山遺跡(庄原市),西本3・4,6号遺跡(東広島市)など多数あります。竪穴住居の屋根はすでに腐っていて,普通の状況では残らないのですが,焼ければ炭化して残ります。屋根の構造や屋根を組み上げた桁・垂木材などが分かる場合があります。萱などで屋根を葺いた上にさらに土を置いていた例もあったことが,焼けた土の存在から推定されたり,桁・垂木材はクリ・クヌギなどが多いことが分かってきました。また,土器など生活道具をしばしば残していますので,焼失した竪穴住居跡は,火災に遭ったがために,後世に豊富な情報を提供しています。
 以上,竪穴住居跡を見学される際の見方の一端を述べてみました。ぜひ,遺跡を訪れて過去との対話を楽しみ,歴史の旅を味わってください。

(岩本正二)

焼失した円形住居 竈のある方形住居