ひろしまの遺跡 第85号

発掘までの道のり
 この春の日曜日,新緑を楽しむため中国自動車道の庄原インターチェンジを下り,国道183号を北に向っていると,程なくして右手に真新しい建物が見えてきました。今春オープンした「かんぽの郷庄原」です。この建物が建設された場所は,1997月4月から12月にかけて遺跡の発掘調査が行われました。その遺跡は和田原D地点遺跡といい,自分もこの発掘調査に携わっていただけに,当時のことが懐かしく思い出されました。調査からもう4年も経っているのか……そんな思いで建物を眺めていると,ふと知人の言葉が浮かんできました。
 自分が今,遺跡の発掘調査に関わる仕事をしているという話のなかで,「遺跡の調査って,ありそうなところを調べるん?」と聞かれたことがありました。この質問には,『お宝を探しているのか』というニュアンスが含まれていたのです。それ以来,発掘調査はなぜ行われるのかは意外に知られていないのだ,という思いがずっと心の中に残っていましたので,今回このことに触れてみたいと思います。
 広島県内には確認されているだけでも約1万5千以上の遺跡があり,毎年県内各地で発掘調査が行われています。その多くは,開発事業と密接な関係があり,発掘調査が始まるまでにはさまざまな経緯があります。それを和田原D地点遺跡を例にとり,簡単に振り返ってみたいと思います。
 和田原D地点遺跡のある庄原市に「かんぽの郷庄原」の建設が決定したのは1994年11月のことです。こうした開発が計画された場合は,その予定地内に文化財などがあるかどうか,あらかじめ調べることになっています。この遺跡の場合,実際に現地を見て調べたところ,地下に遺跡の存在する可能性が浮かび上がってきました。そこで建物が建設される場所以外は緑地として整備するなど,地下の遺跡を破壊しないよう配慮した開発計画がたてられました。しかし,建物が建設される場所は,地下に遺跡があった場合,これを破壊するおそれがありましたので,遺跡があるかどうか,あればどのような状態なのかなど,一部分を試しに掘って調べることになりました。これを試掘といいます。その結果,地下に遺跡のあることが判明し,この遺跡をどう取り扱うかについて再三協議が重ねられました。その結果,できるだけ破壊しないよう緑地の活用を計画して遺跡を保存するが,建物を建設する場所についてはどうしても保存が困難である,という最終的な結論が出されました。そのため,やむをえず建設工事着手前に発掘調査が行われた,という経緯があります。
 長々と経緯を説明しましたのは,遺跡の発掘調査が安易に行われているのではない,ということを知っていただきたいためです。地下に埋蔵されている遺跡は古来より現在までずっと続いてきたもので,未来に受け継がれるべきものです。ですから,開発が行われる場合でも遺跡を保存するよう,できるだけの努力がなされています。しかし,やむをえず遺跡の保存が困難な場合でも,遺跡の発掘調査を行って記録に残すことによって,昔の人々の暮らしを明らかにしていくことが必要なのです。
(新井真吾)
観光資源の開発の一環として1991年温泉堀削が行なわれました。この温泉資源を活用するため「かんぽの郷庄原」が,かつて調査を行った和田原D地点遺跡の跡に2001年4月オープンしました。
発掘調査を行ったときの和田原D地点遺跡のようすです。地元の方々に発掘作業員として参加していただくなど,さまざまな協力・理解をいただきました。
和田原D地点遺跡では,弥生時代中期から古墳時代初期にかけての集落跡,古墳時代中期から後期にかけての古墳などが見つかりました。

発掘調査期間中の見学者や,遺跡見学会参加者は延べ約1,000人を数えました。