ひろしまの遺跡 第78号

 広島県には遺跡が約14,000か所あるといわれていますが,このうち古墳は約10,000か所で,遺跡全体の約7割を占めています。古墳の大部分は円墳ですが,小型の前方後円墳や円墳に造出部を設けた帆立貝形古墳も多くあります。また,全長が100mを超える大型の前方後円墳が知られていないことも広島県の古墳の特徴といえるでしょう。
 文化財としての古墳は,戦前(昭和20年以前)に御年代古墳(豊田郡本郷町)が国の史跡に,兜山古墳(三原市),瓢山古墳(庄原市),康徳寺古墳(世羅郡世羅町)が県史跡に指定されるなど早くから保存が図られてきました。また,昭和50(1975)年頃より以後は,浄楽寺・七ツ塚古墳群(三次市)が「みよし風土記の丘」として公園になり親しまれているように,整備も各地で行われています。これらの古墳を訪れると,墳丘や石室の大きさに感心しますが,古墳からどのようなことが考えられるのでしょうか。ここでは,復元された広島県を代表する三ッ城古墳(東広島市)の例をみていきたいと思います。
 三ッ城古墳は,県のほぼ中央部に位置する西条盆地のなかにあって,盆地のほぼ中央付近の八幡山から北東に延びる小丘陵の先端に築いており,本誌第59号の遺跡マップBで紹介していますように,5世紀前半に築かれた全長約92mの前方後円墳です。この古墳は昭和4(1929)年に初めてその存在が公表されましたが,その後長く忘れ去られていました。昭和26(1951)年に再び確認され,発掘調査が行われて学術的に注目されました。その後,昭和57(1982)年に史跡となり,昭和63(1988)年から平成3(1991)年にかけて保存整備のための発掘調査が行われて,古墳の規模や墳丘の築成状況,造出部の存在,段築上の埴輪列,墳丘斜面の葺石,埋葬施設の状況などが明らかにされています。
 古墳の全長は先述のように約92mですが,築造企画上は約100mで,墳丘の大部分は地山を削り出して三段に築成しています。なお,後円部の径は推定約62mですが,築造企画上の径は約67m,前方部の先端幅は約67mですが,築造企画上の幅は約64mで,実際の規模と企画上の違いが明らかにされています。このように墳丘は計画どおりに築造されていないのですが,巨大な古墳も一定の計画に従って築造されたことが知られます。
 造出部は,西側では周堤と結ぶ陸橋が確認されています。また,須恵器の器台・甕,土師器の高杯・壺が,東側では土師器の高杯, 紡錘車・鉄鎌などが出土しています。これらの遺物は祭祀に用いられたとみられ,造出部の役割を考えるうえで興味深い事例です。
 埴輪は,円筒埴輪や朝顔形埴輪などが墳丘段築上や造出部などに復元で1,743本が立て並べられていますが,後円部の一部には埴輪が並べられていないことが調査でわかっており,計画では少なくとも1,800本は予定されていたことでしょう。
 埋葬施設は,後円部に石棺を据えた竪穴式石槨2基と石棺1基があります。石棺は西条盆地の一帯では弥生時代や古墳時代にありますので,伝統的なものと考えられます。また,竪穴式石室はいくつかは知られていますが,石槨内に石棺が入れてある例は本古墳のほかには知られていません。竪穴式石槨は竪穴式石室の簡略化したものと思われますが,このような石槨の例がほかに知られていないことからすると,以後は石槨の築造方法が伝わらなかったものと思われます。なお,副葬品は昭和26(1951)年の調査で,鏡・玉類・鉄鏃・刀剣類・銅釧などが見つかっています。
 ところで,後に安芸国と呼ばれた広島県の西半分の地域には,この三ッ城古墳に匹敵する規模の古墳はほかに見当たりませんので,葬られた人物は西条盆地一帯を本拠にした首長で,安芸地域を代表するものとして,当時の畿内を中心とする中央政権からその存在が認められて,巨大古墳が築造されたのではないかと推定されています。
 三ッ城古墳の周辺は宅地化が進み,かつての 田園風景を眺望することはできませんが,復元 された古墳からは古代への想いをめぐらすこと ができます。また,当時の埋葬のようすや古墳 の構築技術,埴輪や副葬品などの生産技術,中 央政権との政治的結びつきなど多くの情報を提 供してくれます。        
(松村昌彦)
復元された造出部の埴輪列
復元された三ッ城古墳

参考文献
・広島県教育委員会『三ッ城古墳』1954年
・東広島市教育委員会『史跡三ッ城古墳』第1〜4年次,1989〜1991年
・東広島市教育委員会『史跡三ッ城古墳整備事業報告書』1994年