平成30年度 発掘調査ニュース
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上ノ城跡(うえのじょうあと) (安芸郡坂町坂東4丁目)
【調査期間】平成30年5月7日 ~ 平成30年6月23日
中世の坂の「村の城」・上ノ城!
〔調査の概要〕
上ノ城跡は、広島湾の東岸に位置する坂町の谷の最奥部に飛びだした標高65mの丘陵の先端に築かれた中世山城で、北に広がる坂町の市街地と海岸線がよく見えます。
町内では,これまで古墳時代後期の植田古墳が知られていましたが,それ以外に弥生時代や古墳時代の遺跡は明らかではありませんでした。中世には矢野を本拠地とした野間氏に関連するとみられる山城跡が上ノ城を含めて5か所知られていました。
城跡は,調査前から3か所の郭(平坦面)と1か所の堀切が確認されていましたが,発掘調査によって,最高所の1郭と2郭の間の切岸(人工的な崖)の下部に新たな堀切が存在していたことが発見されました。新たな堀切の幅は約4m,深さは約1.5mで,堀切の中から,15世紀前半ごろの備前焼の壺・甕・すり鉢のほか,中国製の青白磁碗の破片や砥石,鉄製品,土錘(漁労に使う網の土製おもり)などが出土しました。この堀切はのちに人工的に埋め立てられており,埋め立てた堀切跡の中央部には石列が設置されていました。埋め立ての理由や石列の機能については,明らかではありませんが,戦いなどの事態に備えて,堀切のある2郭の面積を拡張するとともに,城の下から敵が登りやすい堀切の閉鎖を意図したものとも考えられます。また,1郭と2郭の間の切岸には,地山の岩盤も利用した簡易な石垣が設置されていていました。1郭や2郭では,建物跡はみつかりませんでしたが,木柵を設置したとみられる杭穴がみつかり,郭の周囲に柵列を巡らせていたこともわかりました。
このように上ノ城は,小規模ながら様々な防備の工夫もみられ,中世山城として比較的古くから利用されていたことがわかりました。
中世の矢野・坂一帯は,矢野に本拠を置く野間氏が勢力を伸ばしていた地域で,文安2 (1445) 年に室町幕府から領地を与えられて尾張国野間から移住してきた野間氏は,矢野・坂から音戸の瀬戸あたりまでの海岸部に勢力を伸ばし,海上活動によって広島湾東部の海運などの交通・交易の権益によって勢力を拡大した海賊衆的な側面をもった領主だったと考えられています。
野間氏は天文24 (1555) 年,毛利氏によって滅ぼされます。こうした中にあって,上ノ城も最終的には,当時の矢野・坂の領主・野間氏の勢力下に入った砦の一つとなったと考えられますが,発掘調査でみつかった15世紀前半の陶磁器類や戦国期の山城としては集落近くの低い丘に立地する点などから,野間氏入部以前の室町時代後期に坂の集落と浜を防衛する坂独自の砦(「村の城」)として構築されていた可能性が高いことが判明しました。
なお,坂町内での埋蔵文化財の発掘調査は,この調査が初めてで,城跡の造成土の中からは,坂町で初めての弥生土器の破片もみつかりました。
現地説明会を6月8日(金)10:00 と 6月23日(土)13:30に行いました。
調査終了後の7月6~7日にかけての西日本を中心とした豪雨によって,坂町とその周辺地域で大きな災害が発生し,現在も復旧作業が進められています。被災された方々に心からお見舞い申し上げます。
上ノ城跡から坂町の街並みを望む
上ノ城跡の遠景(北東から)
上ノ城跡の遠景(南西から)
1郭の発掘のようす(南から)
2郭の発掘のようす(南東から)
3郭の測量のようす(南西から)
2郭の堀切の発掘のようす
空中写真でみる上ノ城と明神山城と矢野城の関係)
現地見学会のようす(6.23)
海から見た坂の城跡
野原山城跡(のはらやまじょうあと)(広島市安芸区上瀬野町)
【調査期間】平成30年5月7日 ~ 平成30年7月27日
山城の調査開始!
〔調査の概要〕
野原山城跡は瀬野川に流れ込む熊野川東岸の丘陵先端部に位置しています。野原山城跡頂部の標高は約150mです。城跡は尾根頂部に郭(平坦面)があり,この平坦面の東西両側に堀切を設けていました。東側の堀切は5条,西側の堀切は1条で,いずれも尾根に直交しています。郭からは溝・石組・土坑及びピット群などの遺構がみつかり,溝によって南北に仕切られていました。北西部からは壁土と思われる土塊が多く出土し,土壁を用いた構造物が存在していた可能性があります。郭は東側の調査区外にも続いており,土塁状の高まりが巡っていることなどから,何らかの建物の存在が想定されます。
東堀切群のうち,最も西側にある東堀切1は幅9~12m,深さ9m程度で,そのほかの堀切は,幅約5~6m,深さ3~4mほどの規模です。西堀切は幅9~13m,深さ12m程度で,断面はV字状となっています。西側では幅50㎝程度の狭い犬走状の段差がつくられていました。郭南側は,当初帯郭と想定していましたが,調査の結果,長さ約35m,幅7~10mの通路状遺構に伴う溝であることがわかりました。東西方向に直線状に延び,東側で東堀切1に,西側で西堀切につながっています。東西堀切群の規模が比較的大きく,厳重な防御の様子が窺えます。遺物は,土師質土器の皿・鍋・羽釜・擂鉢,陶器の甕・擂鉢,瓦器火鉢,青磁,白磁,砥石,硯,刀子・鉄鏃・釘,古銭,壁土片などがあり,主に15~16世紀代に利用されていたと考えられます。城跡の性格は明確ではありませんが,厳重な防御施設を有すること,日常的に使用する道具が多くみつかり,建物があったと考えられることなどから,居館のような性格が考えられます。中世の瀬野川上・中流域は安芸区中野東を拠点とする阿曽沼氏が支配しており,本城跡も阿曽沼氏の勢力下にあったと考えられます。なお,調査区東端で竪穴式石室を検出しました。石室床面で歯4点,棒状の鉄製品1点が出土しています。墳丘盛土は確認できず,背面は調査区外であることから,古墳の形態や規模は不明です。
頂部の平坦面(郭)の様子
平坦面西側の堀切
平坦面東側の堀切
郭の調査状況
郭の溝および石組検出状況
(北西から)
東堀切群調査状況(南東から)
東堀切1完掘状況(南から)
西堀切断面(南東から)
竪穴式石室(南から)